学園日誌

diary

学園日誌

西濃学園市民講座を聞いて

「家族を考える」         講師 菅野 雅雄先生(文学博士)



ボランティアスタッフ 藤原悠佑


9月11日(日)大垣市スイトピアセンターにて
市民講座概略と感想





■家族と家庭の違い



家族とはいわゆる血縁関係に代表されるような「人間同士」のつながり。
そのため離れて住んでいてもあるつながりを持っていればその関係を家族と呼ぶ。

一方家庭とは、一つ屋根の下に暮らすなど、主に家族が住んでいる空間そのものを指す。

血縁関係のない居候が家に住んでいる場合も、同一の住居内に住んでいる場合はすべて含めた環境を「家庭」と呼ぶ。


昔は人間同士のつながりとしての愛情・すなわち「家族愛」というものがあった。しかし現代では家族愛が薄れ、同一空間に暮らすことで生まれる愛情のみで親子・親族のつながりが保たれている。言葉は存在しないが、言わば「家庭愛」で家族が成り立っている。

そのため同居していない家族に対する愛情が薄く、遠方に暮らす祖父母の世話や定年後の両親を自宅に招いて一緒に暮らすということが減っており、愛情が薄いために老人介護が自分たちを圧迫する対象として捉えられてしまう。



■「古事記」上巻より ?昔の結婚? 



昔は父親の権力が強く、娘が求婚された場合も、父親の了承が必要だった。



■戦後教育の落とし穴



戦後は天皇中心の考え方を廃し、西洋的な個人主義の思想を日本に適用しようとした。しかし西洋の個人主義はキリスト教的な宗教観を基盤として成り立っているため、全体でまとまる・いわゆる「和」を求める儒教的な思想を基盤としていた日本では、個人主義があまり定着しなかった。

戦後の支配国アメリカは、日本での教育においてこの儒教的思想(仁義礼智などに代表されるもの)を排除しようとした。そのため戦後教育を受けた子供たちには、そもそも礼儀・孝行といった考え方が定着していないから、彼らに頭ごなしに「親孝行をしろ、他人への礼儀を大切にしろ」というようなことを言っても伝わらない。
 

しかし、だからといってその状況を嘆くのではなく、どうやって打破するかを考えることが大切である。例えば播磨国風土記(神崎郡より)といった物語の裏に隠されている思いやりの心に気づいてもらうなど、遠回りながらもそのように「暗示」することで学ばせていくことが解決策につながると考えられる。



■子どもと話す機会を増やすには? ――受講者の質問より 



食事中に会話をすることが望ましい。上記の家庭愛という話のとおり、同一空間にいるということで子供にも親に対する愛情が芽生えてくることを狙う。また、食事中に体調を気遣ってやるなどすることで、子供に親が自分のことを気にしてくれていると実感してもらうことが、親子間の会話を増やす手助けとなると思う。




<感想>  

今回の家族愛ではなく家庭愛で家族が成り立っているという話は非常に参考になりました。

自分の家族の話になりますが、私の家は2LDKのマンションに両親と兄弟3人が暮らしています。そのため生まれてから今までの22年間、私は3歳年上の兄と一緒の部屋で暮らし、高校2年生の妹は生まれてから今までずっと両親と同じ部屋で寝ています。部屋と部屋を仕切るドアも閉まったためしがありません。高校生くらいの頃まではずいぶん喧嘩もしましたが、今では親子兄弟が互いにからかい合いながらも仲良く暮らしています。



この話を大学の同級生にすると大抵驚かれます。話を聞くと、一緒に暮らしていてもほとんど会話が無い・親子の会話が無いといった家庭がとても多い事に逆に驚かされます。さらに聞くと、彼らは小学生の頃から兄弟各自が一人部屋を持っているのです。逆に私の話を驚かない友達は、一人部屋を持ったことが無いか、持っていたとしてもあまり部屋には篭らずリビングにいるというのです。他にもさまざまな理由があるとは思いますが、家族の個人空間が存在すること、そしてそれを仕切る存在(ドアなど)の有無が親子関係に少なからず影響しているのではないかと感じました。


また、地方出身で大学生になって一人暮らしを始めた友達の多くは、盆と正月にも実家に帰郷しないと言います。理由を聞くと、「実家に特に用がないから」という意見が意外に多いのです。


私は実家から大学に通っているので分かりませんが、同年代に家族愛というものが薄れているのは確かなようです。ただ、だからといって親に対してマイナスの感情しか抱いていないのかというと、それは違うと思います。


私の家では、出かけるときに母が大抵玄関まで見送りに来ます。初めはうざったいと思うこともあったのですが、今となってはそこまで気遣ってもらっているということに少なからず感謝しています。また時間が食い違うため父親との会話する機会が最近減り、疲れているときなどは父に対する対応が冷たくなったりすることもあるのですが、私が疲れているときに「最近ちゃんとメシ食ってるか?」など気を遣ってくる父親の発言が嬉しかったりもします。


高校生の頃などはわざと突っかかったりもしました。それでもしぶとく気を遣う両親に子供が根負けしたのか、兄も私も、そしておそらく妹もある時期を境に親に対する気持ちが変わった(変わる)のでしょう。仮に邪険に扱われたとしても根競べのつもりで接し続けることが、親子関係の緩和への道なのかなあと感じます。


今までは当たり前のものとして教育されてきた儒教道徳は、これからは他人との関係性・特に親子関係を通じて少しずつ築かれていくものかもしれない、そしてそれに子供が気づいた時、それまでの家庭愛がようやく家族愛に変わるのだろうと、今回の講義を聞いていて感じました。




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