学園日誌

diary

学園日誌

子どもと悪【2】

今号も引き続き、河合隼雄著『子どもと悪』(岩波書店)をご紹介していきます。

第2章「悪とは何か」は、「はじめに「悪と創造」ということを取り上げ、悪を単純に排除すべきものと考える人には、少しショックになるようなことを述べた。後にも何度も取り上げることになろうが、教師や親が悪を排除することによって「よい子」を作ろうと焦ると、結局は大きい悪を招きよせることになってしまう。 そのことをまずはじめに認識して欲しかったのである」と始まっている。 この著書を通して、河合先生が最も強調したかったことなのだろう。


   では、そもそも「悪」とは何なのか。

   スピノザの『エチカ』においては、悪を「関係の解体」 と捉えることがあるという。「確かにこれは適切な表現である…しかし、この言葉を見て筆者がすぐに感じたのは、これこそ近代の自然科学の命題そのものではないか、ということであった。 そもそも人間は自然の一部として生きてきたのに、その関係を解体し、人間が自然の外に立って、関係のないものとして観察をすることから近代科学が始まったのではなかろうか。

   あるいは、人間存在として全体性を保っているのを、敢て心と体に解体して考えることによって近代医学は進歩したのではないだろうか…何だか話が「子どもと悪」からずいぶん離れたところに行ってしまったようだが、子どもの教育や育て方について考えるとき、現代においては、このあたりまで考えておかないと、いったいどのような育て方が「よい」のかどうかわからなくなってしまうのではないか、と筆者は考えている」とここでも、悪の両義性を問う。


   続いて、子どもの悪の体験に対して、大人はどうすればよいのか。

「「悪のささやき」は誰にでもあること、つまり根源悪と呼びたい悪は、いつでも人間の心を捉えようとしていることをわれわれは忘れてはならない…悪が一定の破壊の度合を超えるときは、取り返しがつかないということを人間は知っていなくてはならない。そして、そのような可能性を秘めた根源悪は、思いがけないときにひょっと顔を出すのだ。そして、後から考えるとなんとも弁解のしようがない状態で、人間はそれに動かされてしまう。このことをよく心得ていると、大切なときに踏み止まることができる。

   それを可能にするためには、やはり、子どものときに何らかの深い根源悪を体験し、その怖さを知り、二度とやらないと決心を硬くする必要がある。筆者は、非常に多くの人がこのような体験を持っているのではないかと思っている。そして、そのときに大人がどのように対処したかが、その人の人生にとっても大きな意味を持つものと思う…大人は子どもに根源悪の恐ろしさを知らせ、それと戦うことを教えねばならない。時によっては厳しい叱責も必要であろう。

   しかし、そのことと子どもとの関係を絶つこと、つまり、悪人としての子どもを排除してしまうこととは、別のことなのである。自分自身も人間としての限界をもった存在であるという自覚が、子どもたちとの関係をつなぐものとして役立つのである」と「関係の解体」に対して「関係の回復」がなされることが求められる。


第3章以降は、具体的な悪が論じられる。


   まず「盗み」が取り上げられる。「盗みに限らず、全ての悪は、どこか自立に関わるところがあるが、特に盗みが問題になりやすいのは、この行為の意味が非常に深いルーツを持っているからではないかと思われる…プロメテウスの神話(ゼウスより火を盗み、人間に与え、自らはひどい刑罰を受ける)は盗みの話のルーツといってもよく、そこには自立することの難しさと恐ろしさ、そしてそれは「盗み」によってなされるということがよく示されている。

   「火」というのは「あかり」であり、闇の中を照らすものであり、しばしば人間の「意識」の象徴として用いられる。個人が自分を「個」として何ものにも従属しないと「意識」すること、それは自立である。

   しかし、このことは、その個人を自分に従属させたいと思っている者にとっては「悪」と見なされるし、なかなか許してもらえない。そこで「盗み」という手段が生まれてくる…以上の論を読んで、私が「盗み」を賞賛していると思ってもらっては困る。それはあくまで悪いことで禁止しなくてはならない。

   だが、その悪の中に深い意味があることは知って欲しい。このようなパラドックスに満ちているのが人生であり、それを身をもって知っている先達として子どもの悪に接することが必要ではなかろうか。そこには画一的な答はないのである」と。

   また、厳しいしつけをしてきたにもかかわらず、盗みをした小学二年生の女の子のお母さんの相談が登場する。「このようなとき、私はすぐに結論を出すことはしない。これをどう解決するかということより、このことによって来談された人が何を発見し、何を自分のものにしていくか、という過程が大切と思うからである。じっくりと先に述べていったような経過を聞いていると、話しをすることによって自分をある程度客観化したり、そのときの感情を再体験したりして、その人は自分なりの答を自ら見出していくことが多い。

   その間に、子どもは盗みまでして「本当は何が欲しかったのでしょうね」などと問いかけてみたりする。子どもの欲しかったのは、母親のやさしさである。それではしつけの方はどうなるのかとすぐ問う人に対して、やさしさと厳しさは両立しないものでしょうかね、などと問いかけたりする。

   子どもの対するしつけは大切である。これは間違いない。しかし、どのような正しいこともスローガンになると硬直する。硬直した思考は単純に二者択一的になる。厳しくするか、やさしくするか。前者をとることは後者を否定することだと考える。

   これは機械のすることで、人間のすることではない。人間が機械ではなく、生きているというのは、対立するかのように見える厳しさとやさしさを、いかにして自分という存在の中で両立させていくかという努力を続けることである。そしてその両立の仕方の中にその人の個性が顕れてくる。

   子どもは有り難いものだ。自分にとって(つまり母親にとって)必要なものを、盗んででも得ようとする。それに気づいた母が自分の生き方を反省し、変えていく。ちなみに、このときは、母親は子どもと一緒に文房具屋に謝りに行くことにした。しかし、何をしたかということではなく、それにいたるまでに母親の心の中に生じた過程のほうが大切であり、それを共にすることに、われわれ心理療法家の仕事の意義があると思う」


   次号は、現代において特に重要な「身体と悪」の関係や、うそ・秘密・性について、いじめの底にあるものを通して、「子どもと悪」を見ていきたいと思います。



ホーム