学園日誌

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子どもと悪【3】

  今号も引き続き、河合隼雄著『子どもと悪』(岩波書店)をご紹介していきます。

  現代の心の問題を考えるときに、大変重要となってくるのが、身体、感情にかかわることです。


  
「人間にとって、「身体」というのは非常に不思議なものである。それは自分のものであるが、自分のままにならない部分がたくさんある。

そして、それは人間の喜怒哀楽に密接に関連している。何よりも大切なことは、それに「死」が訪れることを人間は知っており、それに対しては絶対に抗し難い…ここで、精神と身体という区分を明確にし、精神を善と考えると、身体は悪ということになる。

特に、身体は食欲、性欲など精神によってコントロールするのが難しいことに関係するので、余計悪者扱いされる。

それに子どもの体験としては、大小便、唾、鼻汁、など自分の体から出たものが「汚い」として忌避されるのは、印象的なことであるに違いない。

それを少し押しすすめると、それらを排出してくる体そのものも「汚い」、あるいは、「悪」に結びつくことになる…先進工業国において、人間の自我がその周囲のものをコントロールする、ということがきわめて重要なことになる…このようなことが多く積み重なって、現代人は自分の身体から相当に切り離された存在になってしまっている。
自分の生きている身体という感覚が弱くなり、自分が生きているということは、自我が何を認知し何を考えているか、ということのみに集中している。つまり、頭でっかちの人間になる。

そして、大人たちは、子どもがそのように早くなるように努力するほど「よい子」だと思い込む。

裸で遊びまわる子ども、取っ組み合いをする子、泥んこ遊びをする子、これらは下手をすると「悪い子」に分類されてしまう。

しかし、そのためにわれわれは身体性ということを置き忘れてしまった子どもをつくっていないだろうか…身体性との関連で問題となる「性」のことも、それをコントロールすることの方に重点が置かれすぎる性教育がなされているのではないだろうか。

科学的事実を教え、その知識を生かすことによって、エイズの危険を防ぐことが性教育の中核と考えるのは困ったことである」「人間には感情というものがある。


  これも身体と同様に自分のものでありながら、どうしようもないときがある…すでに、現代人は頭でっかちになっていることを指摘したが、知性を重視する考えに立つと、感情の強い表現は悪ということになる。

常に自分を抑制していることが善である。それに感情を表に出してしまうのは見苦しいという考えもある。
また、「元気で明るいよい子」好きの大人は、子どもが怒ったり悲しんだりするのを忌避する傾向が強い。
「泣いてはいけません」、「そんなに怒るものではありません」と注意して、子どもはいつも明るくしていなければならない。
このような人は一年中「よい天気」 が続いて一度も雨が降らなかったら、どんなことになるのか考えてみたことがあるのだろうか。
子どもの成長のためには、泣くことも怒ることも大切だ。 人間の持ついろいろな感情を体験してこそ、豊かな人間になっていけるのだ」




  続いて、「うそ・ 秘密・ 性」について読んでいく。


  
「子どもの悪を考える上で、ここに掲げた「うそ・秘密・性」はいずれも重要な項目である。

一般に大人が子どもに対して「悪」 と指定するものの中に、これらは属している。
確かに、うそ・秘密・性と並べると、それらは暗いじめじめとした領域に存在しているものと感じられる。
「明るく健康な」子どもを「善」とするならば、その裏側の「悪」の側に、うそも秘密も性も位置づけられる。

そうはいっても、子ども時代にこの三つのことと無縁に生きた人はいないのではなかろうか。
人間として生きていく上で、それらは避けることは出来ない。
子どものときから大人になっていく間に、うそもつかず秘密も持たず、性に悩まず、などという人がいたら、そんな人間性を感じさせない人はいないのではなかろうか。 それは、不健康な感じさえ抱かせるかもしれない…これはなかなか難しい問題である。
簡単に決まりきった答えは出てきそうにない」と、すぐに結論を述べるのではなく、いろいろな場合を示しながらすすめられていく。

ここで論じられる「うそ・秘密・性」は、すべて人間関係に密接に関係している。
人間と人間の距離を示す指標として、それらは使われる。この章は、是非、読んでもらって、想いをめぐらしていただきたい。

 そして、「子どもの「悪」といえば、現在なら、いじめのことを思い浮かべる人が多いのではなかろうか」といじめについて書かれた章は始まる。

指揮者の岩城宏之さんの『いじめの風景(朝日出版社)』の「ただひとつだけ言えることは、日本に限らず世界中いじめは大昔からあったということだし、現在もあるということだ。
だが大昔や中昔、普通の昔にもあったこのいじめで、現在の日本ほどの数の子供の自殺者が出たような記録はあるのだろうか。

多分ないと思う。 いじめそのものをなくすことは人類には不可能だろう。 問題はその程度であり、犠牲者の痛ましい数なのではないか。
このことを世間の親たち、学校の先生たち、およびマスコミはもっと深く考えて欲しいと思う」という考えに対して、



「いじめは、岩城さんの言うように、人間性と深く結びつくものがある。

従ってどこでも何時でもある、ということになる。

この点について考えるために、ひとつの児童文学作品を取り上げる」



と『不思議な黒い石』(ジル・ベイトン・ウォルシュ作)を取り上げ、異質なものをめぐる子どもたちのある成長の軌跡を示すが、「…いじめを黙認したり、奨励したりせよなどと主張しているのではない。
しかし、「いじめ絶対反対」という態度が、子どもの行動を規制したり、支配したりするほう偏って硬直していくと、子ども達の固有の世界を壊すことになる危険性を十分に自覚する必要がある、と言いたいのである。
子どもは子どもなりに、互いにぶつかり合いながら、相互に切磋琢磨している。
その世界を尊重する気持ちをしっかり持ちつつ、限度を超えぬ守りとしての役割を大人が果たすように考えるべきではなかろうか」と考えを示す。

 本書の「大人がもう少し、悪と辛抱強く付き合うことによって、子どもともっと生き生きとして豊かな人生を共に味わうことができるのではなかろうか」という締めくくりの言葉を、子どもたちと関わる私たちは、子どもたちも自分たちも悪を拒否しようと思いつつ、それをせざるを得ない人間と言う存在であるという自覚の上に、考え続けていきたいものである。



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