学園日誌

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学園日誌

河合隼雄の?こころ?

  今号から、『河合隼雄の?こころ? 教えることは寄り添うこと』(小学館)をご紹介します。


この著書は、月刊誌『総合教育技術』において連載されたものを中心にまとめられたもので、河合先生の最後の作品となってしまいました。

目次を見ると、教える立場にも身を置くものとして、どれも気になるテーマばかりです。
教師ばかりではなく、親御さんにも是非一読していただきたいと強く思いました。

あたたかなまなざしとやさしい語り口は、きっと、ずっと考えていたこと、引っかかっていたことへのヒントにつながったり、さらに考えを深めたり、私たちの背中を押してくれるような気がしました。それでは、幾つかのトピックスの中で心にとこった切り口をピックアップしてご紹介していきます。




?開かれた学校?


(暴漢侵入事件にふれながら)あわてて学校を閉じられた空間にしようとする動きも出てくる。
何とか囲い込むことで防衛しようとするのだ。 この考えは間違っている。 「開かれた学校」 によって、むしろ多くの人の目が学校を守ることになるのだ。

教師のみでなく地域の人たちが、「人は石垣、人は城」になって、学校を守るだけではなく、学校を育て、自分たちも育ってゆくのである。


?読書を楽しむ?


私は一度「読書ツアー」というのを試み、合宿してそれぞれが好きな本を読むという会を催した。

そのときは、自分の読んだ本の中で、自分の好きなところをみんなの前で少し朗読してもらう、ということも試したが、なかなか効果的であった。

ただ読むだけのようだが、読む人の気持ちも、もちろん筆者の意図も、短時間の間に伝わってくるのだ。朝の読書の後で、ごく短時間でも朗読会をしてはどうだろう。
朝の読書会で大切なことは、先生も一緒に読むことである。
子どもは先生の読書の姿からいろいろと感じ取るに違いない・・・子どもたちに、自分で本を「選ぶ」楽しみを体験させることもいいことである。 大人が与えるのではなく、子どもが自分の好みで「選ぶ」のである・・・

三重県四日市市にある「メリーゴーランド」という児童書専門店は、いろいろとユニークな試みをしているところである。 ここでは、ある中学校と相談し、体育館にゴザを敷いて、その上にたくさんの本を並べ、各学級の図書委員が時間をかけて、それらを調べ買い上げる書物を選択する、という企画をした。そうすると、図書の貸出率が非常に上がったという。
図書委員は自分が自信を持って選んだものだけに、同級生にも読んで欲しくて、勧誘するときに説得力があり、効果が上がるわけである。やはり自分で「選んだ」とか、「好き」というのは迫力が出てくるのである。


?教師の倫理?


日本人は権力と権威を取り違えることが多い。教師という権力を持って、暴力やセクハラをするのなど全く許せないことであるが、自分は教師であるという権威―それはあくまでも内的なものであるが―を身につけていなくてはならない。
何と言っても、子どもたちの成長という、人間にとってかけがえのない仕事に関わっていることの意識、及びそのことに関しては、自分は他の一般の人よりもよくできるのだという自負が、その人の教師としての内的権威を支えるはずである。 もちろん、そのためには相当の努力が必要だ。 子どもたちにはどのように教えるべきか、教科以外の日常場面でいかに接するべきか、考えれば考えるほど、奥の深い世界である。 それに対する努力を続けていると、教師としての遣り甲斐も出てくるし、楽しくもなる。
そして、子どもたちも自然に先生を尊敬するようになるだろう・・・平たく言えば、教師という仕事の楽しさを味わうことが第一、ということになるだろう。それではどうすれば楽しくなるのか。 それは各人の工夫や努力が必要だが、一番大切なことは、子どもたちをよく見ることだと思う。
よく見ていると、思いがけないところに子どもの成長しようとする力や、可能性が見えてくるのだ。 そうなると教師としても楽しくなってくる。


?教師の指導力?


子どもが自ら育っていくためには、教師の包容力が大きくないといけない。

このためには、教師は自分の「器」を大きくすることを心がけねばならない。
最近、全日本のサッカー代表の監督をした、岡田武史監督と話し合う機会があった。

彼によると、彼がイタリアの有名なサッカーの監督に、よき指導者になるための条件を訊くと、音楽、演劇、舞踏などの一流の芸術にできる限り多く接することと言った。そのときは何を言っているのだろうと思ったが、今はよくわかるとのこと。

つまり、一流の芸術に接することによって、自分の心が豊かになることが、結局は指導力につながってくる、というのである。 何だか、ずいぶんと遠回りのようだが、教師もこのことを忘れてはならないだろう。
子どもたちはなかなか勘が鋭く、人間味豊かで心の広い教師をきっと見抜き、その教師の言うことには耳を傾けようとするのだ・・・子どもは悩みが深くなるほど、それを言葉で表現することができない。 大人から見ると「異常」とか「非行」 とか言いたい行動によって、大人に自分の苦悩を訴えているのだ。
「問題児」とは大人に「問題」 を提出している子どもだ、と言ったことがある。
子どもの提出する「問題」を解く努力をしなくては、指導などできないのではないだろうか。 ここで大切なことは、子どもを理解するということは「甘く」なるということではないことをよく認識することである。 理解するということは厳しいしことだ。
「悪は許さない」、「悪の意味を考えていこう」という、一見両立し難いことを、両立させる努力を払っている間に、教師のそのような姿勢から自然に指導力がにじみ出てくるのである。




  「学校」を「家庭」と、「教師」を「親」と、そのまま読み替えることもできるかと思います。次回は、「食事」や「家庭学習」、「テレビゲーム」などについて、取り上げていきたいと思います。



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