学園日誌

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河合隼雄の?こころ?-2

  引き続き、『河合隼雄の?こころ? 教えることは寄り添うこと』(小学館)をご紹介します。


?「食事」を考える?

   河合先生は、この章をこう始めます。「日本語には「食事」という表現がある。

普通に使っているのであまり意識しないが、これは生存に必要な「食」ということに加えて、それにまつわるいろいろなことを込みにして、食べることを考えよう、それを大切にしようとする態度を反映している」と。そして、「・・・それに何と言っても、料理の種類、その味の多様さ、それらを楽しみながら生じてくる人間関係、それらを全部含めて、食べることを動物的なことから、人間としての「文化」に高めてゆく過程で、「食事」という言葉が出てきたのだろう。

そして、人間が生きていく上において、「食」を超えて「食事」は非常に「大事」なことなのである」と言います。この冒頭の部分だけで、「食事」がどれほどその人を形作る上で、意味を持つことかが伝わるのではないでしょうか。


  今回は、親御さんたちが、きっと、もっともコミットメントして読んでくれるのではないかと思い、家庭学習やテレビゲームについての章をご紹介すると書きましたが、それはまた次回に延期して、タイムリーな話題として「夏休みの効用」と「戦争と私」をご紹介していきます。


?夏休みの効用?

  ・・・自分が子どもだった頃を思い出すと、何と言っても「自然」の中で遊びまわった楽しさがまず心に浮かんでくる。兄の雅雄とよく話すことだが、現在の自分たちの人格形成に、子どものときに故郷の山や川で「遊びほうけた」ことが、どれほど役に立っているかわからない・・・現代人が便利で快適な生活をするために失った多くのことを、できる限り夏休みという期間に回復させるように工夫するのである。

私はかつて高校の教師をしていたとき、教師と生徒の有志が集まって、お寺に数泊し、それぞれが勉強したり、読書したり、散歩したり、ということをしたことがある。住職さんが料理が上手で、それはお任せしたが、その他の日常生活に必要なことは当番制で教師も生徒も平等にした。異なる点は、教師たちはお酒を飲むが生徒は禁止、というところだけ。このときにしたいろいろな雑談は今も心に残っているが、本当にいい体験をしたと思っている・・・自然体験だけではない。日頃は忘れがちな「いいもん」に接することを、夏休みの利点を生かしてもっとしてはどうだろう。

美術館や博物館に足を運ぶのもいい。最近は、美術館や博物館も変わってきて、子どもの教育に関心を持つところも増えてきたので、よく連絡を取っておくと協力してくれることだろう。子どもたちの興味を引き出すような説明をしてくださることだろう・・・先生が子どもに夏休みの課題として、ぜひしていただきたいのは、祖父母を訪ねてゆき、子ども時代の思い出話を聞いてその内容を報告するというもの。祖父母のいない子は親類知己の高齢者の方にお願いする。これをすると、高齢者と子どものとの心の結びつきが生まれ、お互いにおもしろい発見もある。

このようにいろいろ工夫すると、夏休みの有効な利用法はたくさんある。先生方の創意工夫が待たれるのである。


 

  サマースクールは、西濃学園の創意工夫に満ちているはず。夏休みの有効な利用の一助として、ぜひ、親子で参加をして下さい。


 


?戦争と私?

  ・・・昭和19(1944)年で敗戦の1年前。空襲も烈しく、受験に行くのも大変なので、一次は書類選考ということになった。私は自分で言うのも変だが、成績優秀で一次試験合格間違いなしと思われていた。三高に行きたかったが、難しいので敬遠し、姫路高校を受験した。ところが思いがけず一次試験に落ちてしまった。まったく落胆したが、あまりわけがわからぬというので、父親が空襲で交通事情も大変な中を姫路まで事情を聞きに言ってくれた。

そこで、私の「軍事教練」の成績が「丙」なので「そんな奴は駄目」と自動的に不合格になったことがわかった。(当時は、甲乙丙の評価であった)。

これには説明が必要だろう。高等学校受験直前に、日本の海軍士官養成のため、海軍兵学校が人員確保を狙ってか、急に推薦制を採用した。そうして私がその候補者に選ばれたのだ。

当時のことだから光栄至極、教師も親も大変に喜んだが、実は私は軍人が好きでなかった。愛国心があっても、すべての人間が軍人になるべきとは思わない。

とうとう思い余って、父親に長い長い手紙を書いた。面と向かって言うだけの勇気がなかったのである。推薦を喜んでいた父親は、私の気持ちを理解してくれ学校に断りに行ってくれた。うっかりすると、「非国民」というレッテルを貼られそうな当時の時流の中で、良くぞ断ってきてくれたと思う。そして、先生方もよくそれを受け入れてくれたと思う。それにしても軍事教練の教官だけは納得できなかったのだろう。そこで「丙」ということになったのだが、それが思わぬところで効果を発揮したわけである。

高等学校に落ちて私の考えていた将来設計は相当に変更させられたが、なんとかカバーしてここまで来た。自分が教師になったとき、時代の流れの犠牲になっている生徒がいたら、その助けになりたいと思った・・・


  「戦争をめぐっての悲惨な話は数多くあり、それに比べると私の経験は全くささやかなことである」と前置きした上で河合先生はこのお話しを書いています。

当時の中学生(当時は五年制であったので、現在の高校生に相当)がどんな体験をしたのか、現在、教師をしている人たちに何かを考えるきっかけになれば、と。まず、若き日の河合先生ご本人の意思の表明があってのことですが、父親のわが子とはどんな子どもなのかという理解と足労、教師のわが生徒に対する理解と将来的なものも含んだ判断、一つ欠けても、河合先生の人生は大きく変わっていたのかもしれないと思うと、空恐ろしくなります。

何が本当にその子のためになるのか。その子にとって「良い」ものとは何なのか・・・。子どものことを想い考えるのは、なんと楽しい、幸福なことでしょうか。



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