学園日誌

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学園日誌

ゴールの情景

  今号も、学園長のオススメ・エッセイ、倉本聰著 『ゴールの情景』(理論社)をご紹介します。

  今号は、人と人との間の、破壊と創造、あるいは修復に関与する「敵意」と「ありがとう」のお話を。また、現代のひとつの絶望感として、私たちを取り巻く閉塞感を「終わりなき日常」と表現する人もいますが、だからこそ、倉本氏は「ゴール」という言葉に、意味を込めたのでしょう。

  本著書のタイトルでもあり、また本著最後のお話でもある「ゴールの情景」 をご紹介します。


 


「敵意」


  動乱が始まる何年か前に、ユーゴスラヴィアを訪れたことがある。

  凄まじいインフレのさなかであって・・・ぶったまげたのは、ある地方へ一泊の旅に出かけた時で、行きに払った高速料金が二十五万ディナール。それが翌日の帰りには、三十六万ディナールにはね上がっていた・・・

「そうなのです。ですからこちらでレストランにお入りになったら、注文した時すぐにお金を払ってください。 食べ終わってからですと料金が上がっている危険があります」。

  一応国の招待だったので、ベオグラードから通訳の女性がついてくれた。

多少の日本語を理解する人の良い下町風のおばさんだったのだが一週間目にザグレブに着いた時、このおばさんの態度が一変した。

  ココラノ人間ハ悪イ人タチ、気ヲツケナケレバイケマセンというのだ。それまで気さくに振舞っていたのが突然異常に緊張し、周囲に敵意を丸出しにするのである。

  どうしてそのように急変したのか・・・ ユーゴにあの動乱が捲き起こったとき、あれはそういうことだったンですねと・・・ 歴史のつちかった民族間の敵意というものは多分僕らには計り知れない根の深い怨念に起因するのだろう。 たとえるには極端に可愛いらしいのだが、日本の各地を芝居で廻ると時折似たような現象にぶつかる。

  たとえばAという土地の人間にBという土地での公演を仕切ってもらうと、Bの住人はAの住人に絶対協力しようとしない。 AもBも同一の県の中にある。 ところが何となく反発しあっている。

  何がその反発の原因かというと、百年前の廃藩置県にあるという。かつて両者は違った藩にあり明治政府の廃藩置県で同一の県民にされたのである。

  藩制時代の何とない敵意がいまだに残っているというのだから驚く・・・ 敵意とは一体何なのであろう。


 


「ありがとう」


・・・人にほめられる。  人を喜ばす。  人に感謝される。


  およそ子供っぽくとられるかもしれないが、人の生甲斐をつきつめて行くと、案外ここらに本当の答えが坐っているように思えるのである。板前という職業を幸せな仕事と僕が思うのは、それに比較して食材を生産する農業者の仕事がその対極にあるからである。流通の発達した現代にあって、農業に従事する人々の顔はどんどん消費者から見えなくなっている。

   彼らが土と、天候と戦い、苦労に従事する人々の顔はどんどん消費者から見えなくなっている。彼らが土と、天候と戦い、苦労に苦労を重ねた揚げ句、うまい作物を作り上げても、それを食べたものからの感謝の言葉は殆ど彼らの耳に届かない。近在に住む農家さんからその作物を分けていただき、それを食べたら余りにうまかったので、電話をかけて礼を言った。

   礼というより「うまかった!」と言った。すると相手は涙ぐむのである。そういう風に言われたことが、ここ十数年全くなかった。うれしい!明日から又仕事にハリが出る。そうか!うちのはうまかったか!そういって涙ぐむのである。

   人に感謝する、感謝される。その感謝の声が相手に届くことは、人間社会の基本ではあるまいか。携帯電話が世の中に溢れ、インターネットが世界をカバーし、伝達の手段は恐ろしいまでに日進月歩を遂げつづけている。しかし肝腎の伝達すべき中身は、論ぜられることもなく置いていかれている。我々にとってもっとも大切なことが、忘れ去られて消滅していく・・・ ありがとう、或いはおいしかったよ。小さなその声の届く範囲で、僕は人生を送って行きたい。


 


「ゴールの情景」


一つの豊かさを獲得すると、次の豊かさが欲しくなる・・・

豊かさということを考えた。

欲望ということを考えた。

日本人というものを考えた。


・・・


目標というものがなかった気がする。

哲学というものが欠けていた気がする。

ゴールのないマラソンを走っていた気がする。


  我々は今、いったん立ち止まり、既にとっくに駆け抜けてしまったゴールの情景を探すべきではないのか。便利ということと豊かさということの混同を我々は余りにも犯しつつある気がする。

  便利ということを無限に追求し、自らの欲望に歯止めをかけることを忘れた人種を、果たして文明人と言えるのだろうか。ヒトは新しい野蛮への道を今やコツコツと歩いているのではないか。 ゴールは何回もあった気がする。 冷蔵庫を手にした時、あれもゴールだった。 車を手にした時、あれもゴールだった。家を手に入れた時、あれもゴールだった。

それらの喜びそれらの満足をゴールの情景として今思い出す。

  それらの時点へ今戻るということはほとんど不可能としか言えないだろう。しかし、だったら今からでも遅くない、この先のゴールを決めるべきである。ゴール無きマラソンを走るものがある日突然死を迎えるのは、子供にも判る自明の理なのだ。


 


  以上は、ほぼ10年前の、エッセイです。 ここにきて、農業者の顔が少しずつ見え出してきています。

  もっと、漁業者や林業者にも、会いたいものです。子供たちにも、ありがとうの届く職業について欲しいし、そんな人と人との関係に満ちた人生を歩んでもらいたい。

  しかし、です。倉本氏は、「新しい野蛮への道を今やコツコツと歩いているのではないか」と述べられましたが、コツコツ歩くではなく、颯爽と走ってしまってはいないでしょうか?子供たちを、私たち自身を、取り巻く、時代を、社会を、もう一度しっかりと把握して、ゴールを間違えないようにせねば、と常に自覚を怠らないよう在りたいものです。



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