学園日誌

diary

学園日誌

ひきこもれ-ひとりの時間をもつということ-

 今号は、吉本隆明著『ひきこもれ』(だいわ文庫)をご紹介します。「えっ、ひきこもれ、だなんて、そんな親の想いを無に帰したり、逆行したりという、おかしなこと・困ったことを安易に言わないで」と、当惑されたり怒りをおぼえたりする方もおられたかもしれません。この著書には、副題がついています。 「ひとりの時間をもつということ」と。わたしたちが当たり前のように受け入れ、その中でうまく生きることを人生の成功と見なし、時にはその中でしか生きてはいけないように、つい錯覚しがちな「現代社会」。そんなコミュニケーション重視の「現代社会」とは相容れにくいですが、しかし、本来の人間の能力のひとつでもあったはずの「ひとりの時間」の持ち方について、「思想界の巨人」と言われる吉本さんの語りに耳を傾けてみたいと思います。

時間をこま切れにされたら、人は何ものにもなることができない
-世の中に出ることはいいことか-

 「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい。 ―――そうした考えに、ぼくは到底賛同することができません。ぼくだったら「ひきこもり、いいじゃないか」と言います。世の中に出張っていくことがそんなにいいこととは、どうしても思えない。テレビなどでは「ひきこもりは問題だ」ということを前提として報道がなされています。でもそれは、テレビのキャスターなど、メディアに従事する人たちが、自分たちの職業を基準に考えている面があるからではないでしょうか。かれらはとにかく出張っていってものをいう職業であり、引っ込んでいては仕事になりません。だからコミュニケーション能力のある社交的な人がよくて、そうでない奴は駄目なんだと無意識に決めつけてしまっている。そして「引きこもっている人は、将来職業につくのだって相当大変なはずだ。社会にとって役に立たない」と考えます。 でも、本当にそうでしょうか。 ぼくは決してそうは思わない。世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。 学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人もそうですし、事務作業をする人や他人にものを教える人だってそうでしょう。ジャーナリズムに乗っかって大勢の前に出てくるような職業など、実はほとんどない。テレビのキャスターのような仕事のほうが例外なのです。 いや、テレビキャスターだって、皆が寝静まった頃に家で一人、早口言葉や何かを練習していたりするのではないでしょうか。それをやらずに職業として成り立っていくはずがない。家に一人でこもって誰とも合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、人まとまりの時間」をもつことが、どんな職業にも必ず必要なのだとぼくは思います。

続いて、-一人で過ごす時間が「価値」を生み出す-ではぼくには子どもが二人いますが(二女は、作家・よしもとばななさんです)子育ての時気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。それは、「子どもの時間を分断しないようにする」ということです。くだらない用事や何かを言いつけて子どもの時間をこま切れにすることだけはやるまいと思っていました。 勉強している間は邪魔をしてはいけない、というのではない。遊んでいても、ただボーっとしているのであっても、まとまった時間を子どもに持たせることは大事なのです。 一人でこもって過ごす時間こそが「価値」を生むからです・・・と、子育てに関する持論も拡げていきます。 「他人とのつながり方は、それぞれでいい」「〈暗いこと〉はコンプレックスにならない」「〈孤独〉をとことんつきつめて、その上で風通しよくやっていく」「正常の範囲を狭めてしまうから、つらくなる」「〈食べさせてもらえる〉環境からの自立」など、吉本さんの現象への切り口を見るだけでも、一体どういうことなんだろう、と食指が動いてくる思いがするのではないでしょうか。 また、不登校についても、「〈気質的ひきこもり〉の区別」「〈余計なこと〉はしないほうがいい」「子ども自身も、自分に対して寛大になってしまっている面がある」「目先の利く人間にならないほうがいい」 「親は自分が学生だった頃を忘れている」と持論を繰り広げます。 さらに、いじめと死の問題、ひきこもりだった自らの人生から言えること、そしてひきこもりから見える社会のことについても言及されています。

 読まれる方によっては、その般化はやや乱暴なのでは、と過激に感じられる箇所もあるかもしれません。それでも、このような時代の本流と意を異にする視点、ある意味新しい視点を持つことで、事象に取り込まれ過ぎたり、もう為す術がないのではないかといった行き詰まり、悪循環の袋小路による無力感から、少しだけでも距離を置くことが可能に思うのです。


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