学園日誌

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学園日誌

対話する生と死 ユング心理学の視点

 今号は、河合隼雄著『対話する生と死 ユング心理学の視点』(大和文庫)をご紹介します。西濃学園では、「生きる」ということを問うていく教育を根幹としています。人の「いのち」の大切さ、などとあらためて言う必要もないと思われることを、子どもたちに教えるには、いったいどうしたらいいのか。「…そんなことができるほど、私には何も分かっていない。わかっていないなりにあれかこれかと迷ったり思案したりしていることを示して、何かヒントになればありがたいと願っている」と書かれた本書を一緒に見ていけたら、と思います。


 


 私たちは、改めて「死」を「知ろう」としたことがあるでしょうか。


 


本書は、「生きることは限りがない」という章から始まります。「???」とはなから意表を突かれてしまいます。それは、「死などない」という意味ですか?と思わず尋ねたくなることでしょう。すると、河合先生らしく言葉遊びも交えて「死はない、死は無(ない)、死は無(む)」と捉えてみましょう、と返ってきます。「死は無(む)である」ということをめぐって、河合先生は「相当幼いころから、死は私にとっての大きい関心事であった。死ぬと全く何もなくなってしまう、ということは耐えがたい恐怖であった。幼いながら、目を閉じ耳を被いして、死がどのようなものか知ろうとし、そのように知ろうとしている自分がなくなってしまうのだと気づき、慄然としたこともある。私が現在、心理療法家などという職業につき、そのなかでもユング派に属していることは言うなれば、私の死の恐怖に導かれてのこと、と言ってもいいほどである」と死と無とその力を語られます。「死によって何もかもなくなるということが、私の恐怖の原因であった」という先生ですが、「死によって無になる。これに似た表現かとも思うが、〈死んだらゴミになる〉と言って、しかも平然と死んでいった人があった」しかも、日本人はこのような考え方に共感する人が少なくない、という事実に出会います。そして「おそらく、それは意識的、無意識的に、〈そこでは一々の小さな塵のなかに仏の国土が安定しており、一々の塵の中から仏の雲が湧き起こって、あまねく一切を覆い包み、一切を護り念じている。ひとつの小さな塵の中においてもまた同様である〉」という華厳経の世界観に出会います。「ひとつの塵の中にも仏の自在力が活動しているのなら、死んでから塵になろうが、ゴミになろうが、まったく素晴らしいことである」と。日本語の無は有へとつながる道を備えていると言うが、まさしく、このような、無を有に通ぜしめるひとつの世界観があるのです。


 


  また、鎌倉時代の名僧、明恵上人の「我ガ死ナムズルコトハ、今日ニ明日ヲツグニコトナラズ」死ぬということは、今日の次に明日が来るようなものだ、という言葉を紹介します。ここでは、死の恐怖どころか、生と死の間に、なんら不連続感もなく、ずっと続いていく感覚で「死を知る」のでしょう。しかし、「このようなことが言えるためには、言語を絶する修行が必要であった」と強調されます。死に関する「知」は、頭だけで知っているだけでは駄目であり、身体全体にまで及んでいないと効果がない。しかし、自分の身体全体にまで及ぶ知として把握するためには大変な努力を要する、というわけです。


 


 このように、死ぬことは今日に明日をつなぐようなものと言った、明恵上人でありますが、死んだ後の世界のイメージを夢の中で見ることもします。上記に、死についての知を深めるためには、非常な鍛錬が必要不可欠であると記しましたが、「死についての知はファンタジーの形をとって、顕現してくる」ので、このような夢や、児童文学を知ることも手かがりの一つのようです。ここでは、児童文学の名作、リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』という物語が紹介されています。勇敢でやさしい素晴らしい人物が登場するのですが、その素晴らしさを、死後の世界に関する知によって支えられているものだと、河合先生は言及します。死を「知っている」ことは、つまりは、自分の生き様についても「知っている」ことなので、それは当然なのです。


 


 「死はない、というのは死を忘れることでも、否定することでもない。死の存在をわれわれはもっともっと意識していいかもしれない。死は何らかの意味で無に帰することであり、この世の生が絶たれることには変わりがない。しかし、それに続く生について、あるいは無の中に有を思い描くことについて、自分の全存在をかけた知を、いかにして獲得するかが、われわれにとっての課題であろう」「死についての知」など、明確な答えがありそうにもない、そして人によっては「考えても一銭にもならないじゃないか」「何かの役に立つのか?」など思われるかもしれません。しかし、知ろうとせず、見ないままにしてしまいがちな世界にこそ、「この」生を十分生きるための何かがあるかもしれません。



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