学園日誌

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対話する生と死 ユング心理学の視点 2

今号も引き続き、河合隼雄著『対話する生と死 ユング心理学の視点』(大和文庫)をご紹介します。先号では、改めて「死」を「知ろう」としたことがあるかどうか、自身に問うことをしました。今号は、「恐怖とのつき合い方」について、見ていこうと思います。

 まず、恐怖とは…。「人間っていうものは、自分の人生観とか世界観とかシステムをもちながら生きているわけですが、それをどこかで揺り動かすものが恐怖であるわけですよ」「…生きる体験の中には、恐怖というものが、どうしても入ってくるわけです。存在を揺るがされるというのは、うまくすればね、新しいことが開かれるということですから。で、下手をすれば破局を迎えてしまうと。つまり、恐怖体験っていうのは、その両者のちょうど境目になるわけです。その意味では、それを完全に拒否してしまったりすると、駄目になってしまうんです」「…僕から言うと、今は人間の本来的な恐怖というものが、非常に少なくなってしまっているんですね。日常生活にあんまり恐怖ってないでしょう。昔だったら、どこから動物が襲ってくるかわからないし、敵が切りつけてきたかもしれない。そういうことによって、昔はしょっちゅう自分の存在を揺さぶられつつ確かめることができた。ところが今は、それがないわけ。だから、現在の人間の状態は非常にアンビバレントでしてね。安心を続けるという点では恐怖はごめんだと、けれど、恐怖がないとまた揺さぶられたい気がする…しかし本当は、現代だって恐怖に満ちているんですけどね。でも、みんな、それがわからないんですよね。感受性が鈍くなってて」

 手っ取り早く恐怖を消そうとすると…。「自分の存在を揺さぶられないようにするためにはどこかに「原因」を見つけて、それを攻撃すればいいと。けれど、本当に大事なことは、そういうことではない。みんなが自分の中の存在に気づいていくことこそが、重要なんですけどね。自分の存在の持つ怖さを知るべきだと思いますね。そうじゃないと本当の恐怖を見つめる力は持てないわけです」「…出発点としては、外的な現実と内的な現実を分けて考えた方がいいんじゃないですか。内的な現実を捨てるじゃなくて、外的な現実と対等な重みをもって評価するということです。しかし、われわれの社会はそれを非常にはっきり分けて、一時は外的な現実だけを重く見るというくらいにまでなっていたんですね」

 恐怖のエネルギーが家族に向かう傾向について。「…家族が恐怖の対象になっているケースが、以前よりも増えているということです。母親がものすごく怖いとか。しかも、それがおカアちゃんが怖いとかいうものではなく、もう殺すしかないと。殺さんとこっちがやられる、とかね…本来的な家族の意味とか怖さの自覚なしに、(家族の紐帯が)緩んだ緩んだとやっているから、余計逆のことが起こるんじゃないですか。家族のおもしろさ、怖さを、みんな生きてないからね。本当は、もっとおもしろくて、怖いのにね。そんなにたいしたことないと思いこみすぎているんですよ。だから、実体が急にあらわになったら、落差が大きいですからね。殺さなしゃあない、となるんでしょう」

 最後に、恐怖のキャパシティーを広げていくための心がけとは…。「一般的には、決まりきったものに頼らないことでしょうね。決まりきったものに頼るほど、恐怖は少なくなるわけです。だから、ちょっとはずして見る。そういう感受性を広げていくことじゃないでしょうか。そういう契機をわれわれに与えてくれるのが芸術家ですね…そもそも、さっきも言ったように、自分が生まれてきたっていうことにおののかんかったら、話にならへん。自分のまわりに生きているやつがいっぱいいるのも、恐ろしいし。しかし、そういうことをできるだけ不問にして、機能的に生きることができる社会というものを、僕らはつくってきたんです。けれど、その根元には、ずうっと同じ恐怖があるわけでしょ。それを各人が、どのように意識して、しかも社会生活を壊さずに生きていけるかが、ポイントですね。表面的な恐怖をなくすということでは、人間はすごく進歩してきた。雷が鳴っても避雷針がある。ところが、存在に由来する恐怖というものは、これは絶対になくならないんですから。それまでごまかして生きとったんでは、あんまり生きている価値がないんやないかというのが、僕の考えです」

 自分は絶対に正しい、という人は「怖いものなし」ですが、それだと、どれだけ周りの人が怖い思いをするか、皆様も思い当たったり、経験のあることではないでしょうか。自分は正しいと思いながらも、やっぱり間違っているんじゃないだろうか、自分が正しいということによって苦しむ人がいるんじゃないだろうか、と考えたり、思いをめぐらせることのできる人でありたいと思います。




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