学園日誌

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対話する生と死 ユング心理学の視点 3

 今号も引き続き、河合隼雄著『対話する生と死 ユング心理学の視点』(大和文庫)をご紹介します。先号では、生と死と恐怖は本来的にはいかに密接か、についてみていきました。今号では、「アイデンティティを支える」ことと「対話の必要な時代」の切実さについてご紹介します。


 


 


【アイデンティティを支えるもの】


アイデンティティという語を、今日よく用いられているような意味で提唱したのは、精神分析学者のエリク・エリクソンである。自我の確立ということが重要視されるときに、彼はそれをもう少し深い視点から見ようとしたといっていいだろう。自我が確立しても、それだけでは物足りなくて、それがしっかりとした「存在感」を持ち、「根付いた」感じを持たねばならない…エリクソンがわざわざアイデンティティなどということを言い始めた背景を考えてみると、近代社会になって神経症が増加し、それの治療をどうするかという問題が大きくなってきた事実がある。近代自我が強力なものになるにつれて、それは「死、老、女、病」などをそのシステムの中から排除しようとする傾向を強め、たとえば病について言えば、それを何とか健康にする方法を考えようとする。このことによって近代医学が盛んとなり、その成果も上げたのであるが、神経症は薬も手術も効果を持たないのである…アジアの諸国を見ると、血縁的つながりの強さが、近代化を阻む強い要因となっていると思われる。個人の能力を大切にして、近代社会を作り上げるのには、血縁の力が強すぎて、なかなか効率よく機能する集団を作りにくいのである。その点で、日本は血縁を大切にするといっても、他のアジア諸国とは比べものにならないほどの弱さである。日本人のアイデンティティは、その個人が所属すると考えられている集団、「場」によって支えられている。自分がどこかの会社に所属していることを重視するとき、「××会社の○○」として自分のアイデンティティを保つ。このようなために、会社を退職しても、過去のつながりにしがみついていたり、あるいは、急激にボケてしまったり、などということが生じる。上手な人は、また新しい「場」を開拓していくこともある…近代自我はひたすら進歩と発展を目指してその力をふるってきたが、すでに述べたようにそのシステム内に「死、老、女、病」などを入れこめないところに大きい問題を抱えている…死について考えると…「他の文化からの見解」という題で発表を求められた筆者は要点のみを言えば次のようなことを申し上げた。「あなた方の誠実な議論には感心したが、おそらく熱心にやればやるほど答えは出ないだろう。それはあなた方の用いている思考や議論の方法は、これまであなた方が『いかに生きるか』ということを推し進めるための強力なものとして採用してきたものであり、その延長線上で死を論じても答えが出てこない。これに対して、現代の日本はともかく、過去において日本人は『いかに死ぬか』に答えようと努力し、その文化をつくってきた。そのような日本がかつて欧米との戦いに敗れたことはよくご存知のとおりである。洋の東西を問わず、現代に生きようとするものは、『いかに生きるか』という問いと『いかに死ぬか』という問いと、いずれに対しても答えるように努力しなくてはならない。この葛藤の中で生きることが現代人の課題ではなかろうか」


 


【対話するということ】


現在は対話の必要な時代である。東と西、南と北、男と女、親と子、数えあげていくと切りがない。そして、対話の不足からくる「摩擦」がいろいろと障害をもたらしていることは周知のとおりである。といってもそのような対話はほとんど不可能と言いたいくらい困難なことである。こちらは対話しようとしても、相手の態度が悪すぎて話にならない、とお互いが思ってしまうのだ。「しょせん、話し合える相手ではない」と決めつけたくなってくる。時間の無駄だとさえ思う。しかし、本当に対話する気なら、そこからが大切なのだ。「勝手にしやがれ」と言いたいときに、せめて相手に手は差しのべられないにしても、逃げずにそこにとどまっていることが必要である。何のかんのと思いながらも関係を断ち切らずにいると、対話が再開され、ときに思いがけない展開もある。もっともそのようなことは少なくて、相当な忍耐を必要とするものではあるが、ゆっくりと光は見えてくるものだ…


 


 


 

 今年のサマースクールは「自分を表現する」というテーマで催します。お互いがそれぞれの表現を認め合うことは、対話の第一歩となるのではないでしょうか。子どもたち同士も、子どもたちと教員たちも、教員同士も。「自分を表現する」ということが自然なことでありながらいつの間にか難しくなっているとするなら、この夏をチャンスとしていきたいと思います。


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