学園日誌

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西の魔女が死んだ

号は、児童文学作品『西の魔女が死んだ』梨木香歩著(新潮文庫)をご紹介します。 マラマッドの『夏の読書』ではないですが、夏の一冊にお薦めします。


 


西の魔女が死んだ、という書き出しから始まるこの物語は、まいという不登校の少女とまいの家族をめぐる、魂の救済といっても過言ではない、そんな物語です。装画を描かれた早川司寿乃氏が文庫のあとがきを書かれています。「日々の中で、人間は、自らが作り出した化学物質をはじめとする人工的な物に囲まれ、さらに、人工的なよくわからない物が沢山入った食べ物を食べて生きています。 それは少しずつ人間を歪め、社会全体を歪めてきたように思います。いつの間にかそんなおかしな格好になってしまった人間も、本来は、他の生物と同じ自然の一部ですから、本能的にどこか変だと感じていても、すぐにはどうすることもできずに毎日を生きています。 様々な社会問題は、全て、そんな人間の歪みが引き起こしているのではないかと思えてなりません。この物語に出てくるまいは、そんな社会の中にいて、真っ直ぐ立とうとするがゆえに重圧を受けてしまった女の子です。(多少の差はあっても、私たちは皆、まいの要素を持って生きているのではないでしょうか。 )まいは立ち止まり、両親の勧めで、田舎に住むおばあちゃんの元へいきます。そこで触れる自然にごく近い姿をしたおばあちゃんによって、徐々に生命力を回復してゆきます。 おばあちゃんがまいに施した薬は、人が永い間に自然から教わり受け継いできた知恵や、生活の基本を見せることではなかったでしょうか… 自然の中での規則正しい生活で、まいの生物としてのリズムが目覚め、体と心がしっかりしてくると同時に、まいの「魔女修行」が始まりました。この、その人の持つ素質を伸ばす・自分で考え自分で決めるという魔女修行は、本来の人らしい人になるということなのかもしれません」


 


親の「昔から扱いにくい子だったわ」という言葉に「認めざるを得ない」とまいは痛ましく呻く。そんなまいに、おばあちゃんは「感性豊かな私の自慢の孫」と愛おしさを正しくきちんと伝えてくれます。まいは母親には言えないような、「大好き」をおばあちゃんには言えるし、おばあちゃんの「アイ、ノウ」という返じは、愛おしさも一抹の照れも全て包み込んでOKを伝えてくれます。


 


た「魔女修行」 は理にかなっていて、しかもユーモアが心地よいので抵抗を感じることがありません。「…特別な人たちだけがするのを許されたものではなく、実は、子供も大人も、男の人も女の人も、私たちみんなができることなのです。まいは、クラスのこと、死のこと、ゲンジさん(物語の前半、舞の視点から、彼は下品で野卑で性的で現実世界の醜く汚れたものの象徴として登場します)のこと他をかかえて毎日を送ります。 しかし、魔女修行は一朝一夕でできるものではありません。すぐに答えが出ないこともよくあります。おばあちゃんは答えを示すのではなく、厳しさと優しさをもって、まいが、自分で考えて自分で決めるのを見守る姿勢をとり続けます。 いろいろな出来事を経験しながら日は過ぎ、やがてまいは、ゲンジさんのことで心にしこりを残したままおばあちゃんの元を去ります。そのままに二年の月日が流れ、おばあちゃんは亡くなります。直接言葉を交わすことによっての目に見える仲直りは不可能になり、まいの辛さは深まります。 でも、ガラス窓に、おばあちゃんの残した素晴らしい伝言がありました。 おばあちゃんの魂によって、まいの魂は救われます。確かな魂の存在が感じられます…」ここ3号は河合隼雄先生の『対話する生と死』を紹介しながら、「死」についての知を求めながら、「生」を豊かにできないかと問うてきました。この物語の中では、西の魔女ことおばあちゃんの「死」は、まいを揺るがすものでした。おばあちゃんのメッセージは「ニシノマジョカラヒガシノマジョヘ オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ」。このメッセージを受け取ったまいは、「その瞬間、おばあちゃんのあふれんばかりの愛を、降り注ぐ光のように身体中で実感した。その圧倒的な光が、繭を溶かし去り、封印されていた感覚が全て甦ったようだった…」と感じる。まいは、続いてさらに得もいえぬ幸福といっていい、そんな体験をするが、それは是非本書を読んで、皆様がまいと一緒に味わってください。


 


 ちろん、「死」をめぐるエピソードだけがこの物語を魅力溢れるものにしているわけではありません。まいが癒しの過程で見つけたサンクチュアリ(聖域)の描写を今号の最後に。味わってください。「…目の前の陽当たりのいい場所は、ほの暗く湿った竹林や杉林の間に、ぽっかりと天に向かって開いたような所で、まいの記憶にある場所とは違っていたけれど、まいは何だか妙にその場所が気に入った。古い切り株が幾つもあり、それぞれの窪みに、花をつけた後のすみれが幾株も、弾けんばかりの莢をつけて収まっていた。このすみれが全部花をつけている様を想像して、まいはうれしくなり、そしてそれを見逃したことを残念に思った。切り株の一つに腰をかけると、気持ちがしんと落ち着いてきて、穏やかな平和な気分に満たされる。若い楠や栗の木、樺の木などが回りをぐるりと囲んでおり、まいはそこに座っていると、何かとても大事な、暖かな、ふわふわとしたかわいらしいものが、そのあたりに隠れているような気がした。 小さな小鳥の胸毛を織り込んで編まれた、居心地のいい小さな小さな巣のようなもの。「わたしはここが大好きだ」まいは誰にともなくつぶやいた… 」



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