学園日誌

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学園日誌

社会的うつ病-1

今号より、『「社会的うつ病」治し方 人間関係をどう見直すか』斉藤環著(新潮選書)を紹介します。斉藤環さんは、ひきこもりの治療で著名な精神科臨床医ですが、そこで有効だった視点をうつ病にも取り入れることができる、と論じています。ひきこもりもうつ病も、現代の、特に若者の、生きにくさとして、共通の下地を持っているのでしょう。

 新しいタイプのうつ病が増えた、とよく言われるようになりました。しかし、その「新しさ」に対してどう対処するのかという方法論については、どうもよくわからない。本を読んでみても、書いてあることは古いタイプのうつ病への対処法とあまり変わらないような気がします。薬と休養がメインでせいぜいSSRIのような新薬の効果が羅列されているくらい。もちろんこういった、従来からのオーソドックスな手法で治っていく患者さんも大勢います。しかし、問題はこれだけではなかなか回復に至らないケースもまた、少なくないということです。筆者は、この回復しにくいグループの特性こそが、「新しいタイプ」の特性に重なるように感じる、と言います。
 彼らの症状は、かつての重いうつ病患者に比べれば軽いものかもしれません。しかし彼らは、いまだに社会の無理解に苦しめられています。うつ病の本をひも解いてみても、そこには「未熟」とか「甘え」とか「逃避」といった言葉がちらほらと書かれていて、それは必ずしもその著者の意図通りではないにせよ、まるで自分が病気になったことを責められているように感じてしまいます。ただでさえ自分自身をうまく愛することができない彼らにとって、この状況が八方ふさがりに思えたとしても不思議ではありません。
 その一方で、彼らを支える家族の苦しみもあります。うつ病の治療には時間がかかります。仕事や学校に行けなくなって自宅で過ごす彼らを支えるのは、両親や配偶者、あるいは子どもなど、彼らの家族しかいません。一言で支えるというのは簡単ですが、家族の苦労もまた、並大抵のものではないのです。
 見た目は健康そうなのに、「うつ病」と診断されているので、医者の言うとおりに励ましたり叱ったりせずに、腫れ物に触るように扱わなければならない、不規則でだらしのない生活も、わがままにしかみえない要求も、できるだけがまんして呑んできた。なのに、ちっとも良くならない。本人の状態は「甘え」や「わがまま」とどう違うのか。こんなことを続けていって、本人がますます増長していったら、治るものも治らないのではないか。比較的軽症であり、見かけ上はしばしば五体満足で元気な人にしか見えないがために、彼らの苦しさは家族にすら十分理解されません。
 彼らはよく「仕事中はうつになるくせに、遊ぶときだけは元気になる」などと批判されます。確かにそういうふうに見えてしまうのも事実でしょうが、「ストレスの少ない活動はこなせるが、ストレスが高まると難しくなる」と言い換えてみれば、それも当たり前のことです。にもかかわらず、「病気か怠けか」が常に問題にされるということ、精神科医にすら、単なる甘えとみなされてしまい、治療の対象ではないという判断を下されがちであること。こうして考えていくと、いま若いうつ病患者のおかれている立場は、ひきこもりの事例のそれと構造的にも似通っています。
 
 そして、長年「ひきこもり」の臨床に関わってきた著者は、ひきこもりの回復過程と同様、うつ病においてもその回復過程における人間関係のありようが、極めて大きな意義を持っていると言います。そして、治療の中でいかにして人間関係を活用していくか、ということを最も重要視します。

 本書では、うつ病の薬のことや身体的な治療といったオーソドックスな治療についてはあまり触れてはいません。うつ病の治療において、人間関係がどんな意味を持っているか、そのことだけが書かれています。著者はそれを「人薬(ひとぐすり)」と呼び、人薬の効用についての本なのです。「人薬」は「自己愛」を補強し、それを通じて「レジリアンス」(回復能力、と訳されます。こころの強さについて考える上でキーワードとなり、また、次号で詳しく取り上げます)を高める効果を持っています。著者のうつ病臨床では、この視点はすでに必要不可欠なもので、また、こうしたうつ病の考え方を理解しておくことは、当事者のみならず、当事者を支える家族のかたがたにとっても多くの場面で役に立っています。

 この「人薬」となる人間関係の持ち方や体験の仕方には、「ひきこもり」や「うつ病」となってしまってからだけではなく、「ひきこもり」や「うつ病」になりにくくなるためにも、きっと役に立つ考え方だろうと思います。次号からは、具体的に「人薬」のなかみについて、紹介したいと思います。


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