学園日誌

diary

学園長のひとりごと

私の教師観(1)

 私の小学校は金沢市郊外の1学年1クラスの田舎の学校でした。私は5月生まれでしたので1年生当初は比較的機転が利いたのか勉強はほとんどしませんでしたがどちらかと言えば学習には問題なくついていけました。今から考えると多動的な傾向がありじっと座っていることができず、授業中「先生、おしっこ」と言い教室を抜け出したものです。学校には5年生の担任で音楽の先生が見えました。その先生はすぐに手が出る怖い先生でしたが私とは馬が合うというか甘えることのできる先生でした。教室を抜け出すといつも5年生の教室に遊びに行きました。先生は「おお、北浦よく来たね。そこに座っとれ」と言われ5年生の一員になり授業に参加させてもらっていました。飽きると「もう帰る」と言うと「またお出で」と言われ自分の教室に帰りました。そんな事が許される学校でした。
 私は相変わらず勉強は一切せず遊びほうけていたので成績は下降線をたどり6年生では最下位を争っていたと思います。5年生6年生の担任の先生は持ち上がりで中年の女の先生でした。6年生ではほぼ毎日漢字の書き取りの試験があり60点を取らないと居残りになりました。当然私は毎日居残りを命ぜられひたすら先生が帰られる6時頃までぼ ~ としているだけでした。たまにはみんなと一緒に遊びたくて脱走をしましたが翌日はこっぴどく叱られた事が頭に焼き付いています。当時、世は「安保闘争」が激化していました。ある日先生は「この闘争はどうしても大切な事だ」と言われ午後の授業がカットされデモに行かれました。私は胸がワクワクし今日は思い切って遊べるぞ、毎日デモに行って欲しいと本気で思ったものです。一時間一時間の授業で何か新しい自分を見つけるといったことは全くなかった学校生活でした。
 中学生になりちょっとは勉強せねばと思い、父にに家庭教師をつけて欲しいと訴えました。裕福でない家庭でしたが父は知り合いから金沢大学の2年生の学生さんを連れてきてくれました。その先生からは英語、数学の他色々な事を教わりました。生まれて初めての喫茶店、ボーリング、アイススケートに連れて行って下さいました。2年生の時、斎藤喜博の「可能性に生きる」という本をプレゼントされそれを読み終わった時、こんな先生に教わっていたらちゃんと勉強していたのに・・・率直な感想でした。先生はテスト屋ではなく、授業の中で思考力を高めたり、創造力をつけるなどの感覚をみがいたり共同して考える力を養うことが大切と書かれていました。ただテストをしたり宿題を出したりして子どもを叱咤激励を基本とする仕事では子どもは成長しないと私も思ったものです。


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