学園日誌

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子供はぜーんぶわかってる2

 今号は、引き続き吉本隆明著『子供はぜーんぶわかってる 超「教師論」・超「子供論」』(批評社)から、第2部の「学童期の子供をめぐって」と、学童期に先立つ幼年期を扱った『幼年期 21世紀の対幻想について』(彩流社) をご紹介します。


 


・「幼年」とはいつのことか


…僕なりに言ってみると、それは「母親が傍らにいる時間」、あるいは「母親が傍らにいる必要のある時期、年齢」ということになるかと思います。乳児の場合ですと「母子一体」ということになりますね。幼年は、母子一体ということになりますね。幼年は、母子一体ではなく「傍らにいる」。学校の年齢でいえば、小学校に入る前まででしょうか…


 吉本さんのとらえ方が実感としてわかるかと思います。それでは、吉本さんの幼年期の記憶に、ご自身の幼年期の頃の感覚を思い出しながら、心めぐらせてみてください。


…わたしにとって幼年期にふさわしい一番あざやかな情景は、素通しの硝子障子で戸外と区切られた玄関の土間に、どっかり座り込んで、ぼんやり外の方を眺めたり、兄と姉が小学校へ出かけてしまった留守に、母親と二人だけで静かなあまり、こっくりこっくりそのまま居眠りしていた記憶だった。母親は針仕事で足袋や靴下の破れをかがっている。ときどき台所のほうで家事をする。わたしは軒よりも少々内側で硝子障子の内側から、外にみえる鳩の群れや、掘割を隔てた向う岸の小学校の建物や、道路を隔てた鉄材置場を、ぼんやり眺めている。「おく手」の方だったから、たぶん四―五歳だったと思う。母親は、便所に行って終わったあとは「もうせんと」(もう排尿・排便は終わったよ)と大声を出して呼びな、と言って、また静かになる。硝子障子越しの素通しの風景と土間に腰をついたままの居眠りと、母親の九州弁の「もうせんと」という注意が、静かな「軒遊び」に固有のものだった。やがて兄や姉が学校から帰ってくると静寂は一変して喧騒になり、わたしの土間暮しは畳の上の姉のオハジキやお手玉の相手や、兄たちの外遊びの追いかけに変る…まだ遊び自体が生活なのだという自在さも持てず、兄や姉に遊びに引き回されもせず、日頃忙しそうに動き回っている母親も稀に静かに針つくろいをしている。生涯のうちこんな時が無かったら、と良きにつけ悪しきにつけ、誰でも思い起こす時があるに違いない。わたしにとってこの時期が最初の「それ」であった。意味をつけようにもつけようがない。中味が何も無いからだ。でもこれが無かったら人間の生涯は発達心理学のいう意味だらけになってしまう…存在論の倫理としていえば、母親による保育とやがて学童期の優勝劣敗の世界への入り口の中間に弱肉強食に馴染まない世界が可能かもしれないことを暗示しようとしているともいえる。そして誰もが意識するか無意識であるかは別として、また文明史がそれを認めるか認めない方向に向かうかは別として、この中間をもつことは人間力の特性につながっていると思える…


教育のまなざしのもとでの<する>ことを求められるようになる前の、ただ<ある>ことが許される幼年という子供の時間は、今保証されているのだろうか。…極端に言うと、幼年という概念はいまや消滅寸前である…


 


続く、学童期は、おおよそ小学生段階にある成長期を指します。


・基本的には、子供が自覚的に遊ぼうと思っていく時期だと押さえれば間違いない


・学童期の熱中現象をどう考えればいいか


・子供が秘密の場所をもつことは人類史的にも深い根底がある


・秘密の場所の重要性や遊びが生活そのものだと自覚したときに「夢中」生まれるのではないか


・今でも迷子になったときの焦りや気持ち悪さは心に残っている


・自分たちで作ったルールは、どんなに厳しく見えても束縛されたという実感がない


『ポンキッキーズの101メッセージ』(ネスコ)という、著名人の子育て・教育に関する短い発言集があります。興味深く思ったのは自然科学者が、子供=自然という観点を持ってといることです…宗教学の中沢新一さんは「自分の身近にある最大の自然は、実は子供たちなのだよということを、もう一回思い出してもらいたい」と述べています。子供=自然という子供観は、では、どういうことを意味しているのか。養老猛司さんは「自然というのは、思うようにならない面があります。いいこともくれるけど、悪いこともくれます」と言っている。つまり思うようにならないこと、コントロールの不可能さを当たり前のこととして認める、肯定することだといえましょう。それは、子供一人ひとりの固有性を承認することであり、同時に自分の固有性をも自認することなのではないか。簡単にいえば、子供は独自の世界を持って生きているということだろう。


 


…ああすればこうなるという現代の考えが、過剰ともいえる教育的思考、教育システムを商品化しています。いうまでもなく、子供をコントロールの対象としてしかとらえていない考えです。子供は、わたしたちの計らいの届かない、あるいは理解の届かない自然性への信頼に満ちているのではないかと思います。



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