学園日誌

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学園日誌

脱社会科と少年犯罪

 今号は、宮台真司・藤井誠二著『脱社会化と少年犯罪』(創出版)を紹介します。本書は2001年発行ですし、また少年犯罪が社会を驚かせた2000年からも随分時間が経ち、一昔前の問題となってしまったように感じられるかもしれません。しかし、この「脱社会化の進行」「脱社会化された存在としての若者たちの増加」という問題は、何ら解決されていないばかりか、ますます深刻さを増しているのではないでしょうか。


 


 まず、「脱社会性」という概念ですが、それは「社会の中を生きるのはツライ。だから、社会の中で自分の位置を変えようとか、社会を変えようとかしてあくせく苦労している。でもきっとムダだ。そんなことより、社会の中を生きるのがツライのなら、社会の外へ出てしまえばいい。社会の外へ突き抜けてしまえば、楽になるんだ」という志向です。多くの「社会的」な存在は、また「反社会的」動機を持った人間たちも含めて、確かに、社会的な不全感、社会の中でいいポジションが取れないとか、社会の中で抑圧や差別を受けているとかいった、さまざまな不満を抱えています。であるがゆえに、自分の地位を上昇させようとか、周囲の状況を変えようとか、一発逆転満塁ホームランを打ってやろうとか考えて、社会的な不全感の解消をしようとするわけです。その意味では、「反社会的」とは、十分に「社会的」であるわけです。なぜなら、不全感をコミュニケーションの組み替えによって解消しようという、コミュニケーションに向けた志向が存在するからです。ところが、「脱社会的」というのは、そうした志向は存在しません。むしろ、コミュニケーションの中で尊厳が維持できないのならば「コミュニケーションによる達成自体を信じることを止めてしまおう」「コミュニケーションの中で尊厳を維持すること自体をやめて、自分の尊厳をコミュニケーションとは無関連なものにしてしまおう」といったきわめて重大な戦略転換をしてしまっているのです。


 


 そして、上記の脱社会的志向には「ブライドと自己信頼の深刻な乖離」の問題があります。「ブライドと自己信頼の深刻な乖離」は「オタク」「ひきこもり」「ストーカー」にも共通する問題です。学校教育プログラムは、他者との交流抜きに不遜な「プライド」を抱くことを許さず、また数多くの異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような、そういう空間を設定しなければなりません。「脱社会的存在」を生み出さないための、最も基本的な早道なのです。


 


 このような学校教育プログラムは、当然、暴力の抑止についても効果をもたらし得ます。暴力の原因論は幾つかあり、根強いものに「メディア悪影響論」がありますが、これは一度として実証されていません。しかし、メディアが引き金を引くかどうかを含めて、メディアの効果はメディアを享受する文脈次第で決まるという「受容文脈説」という学説が出てきました。具体的には、親しい人間たちは一緒にテレビを見るほうが、一人で見るよりも影響を受けにくいというものです。それは「こりゃヒドイ番組だね」などと会話する中で、「そうか、ヒドイ番組なのか」という具合に享受したものの意味が再定義されるからです。


 


他者との交流、コミュニケーションの力は、「性」においても非常に大切となってきます。以下のような調査が紹介されていました。親が性道徳にリベラルだったという大学生(リベラル親派)と、性道徳に厳しかったという大学生(厳格親派)で比較すると、リベラル親派の方が恋人がいる率が圧倒的に高い、しかし、性体験の人数は厳格親派の方が人数が多いというのです。これは、性的にリベラルで、性についてのコミュニケーションができるような環境で育つと、子どもは性をコミュニケーションとして考えることができるように育ちます。しかし、家で性についてのコミュニケーションができず、性をコミュニケーションとしてとらえる志向を持つことができないと、売買春を含めた愛なきセックスにも積極的になりうるだろう、ということです。また、性についてのコミュニケーション志向がどのような問題と関連するかについての調査もあります。「恋人いる」派は、相手に「一緒にいて楽しいこと」を期待し、性に関する知識を親や先輩や友だちといった人「間関係的なルート」から得ている、一方「恋人いない」派は、相手に「容姿・学歴・収入など三高志向」を期待しやすく、性に関する知識は雑誌やテレビなどのメディアといった「人間関係的ではないルート」から得ていたという調査です。


 


 学園の教育・生活の中で、もちろん家庭においても、欠かすことのできない考え方と方法が示唆されているのてばないでしょうか。



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