世界チャンピオンの次に強いとされるグランドマスターのひとりであるシュレー氏はこう語りました。
「わたしたちチェスプレーヤーは勝負を決める一手を知っています。ああ、もうだめだ、もう勝てないと相手に思わせる決定的な一打です。だからディープブルーの36手目はクイーンを動かす一手だと全員が信じていました」
ところが長考の後、ディープブルーはクイーンではなくほかの駒を動かしたのです。解説者たちから驚きの声があがりました。「なんだって、どうしてクイーンじゃないんだ!」その声は実況中継していたマイクを通して全世界に響きました。
その第二局、何とディープブルーがカスパロフを撃破したのです。シュレー氏はいいます「第二局はパーフェクトでした。コンピューターが歴史上最強のチェスチャンピオンを真正面から打ち破ったのです。おそらくこの一局はこのさき百年以上は研究されるでしょう」
敗れたカスパロフは憤慨して記者会見をせずにホテルに帰りました。
じつはカスパロフはディープブルーがクイーンを動かすことを前提にあざやかな反撃計画を立てていたのです。
後の分析でも、もしも36手目にディープブルーがクイーンを動かしていたら負けていたという結果がでました。しかし、ディープブルーがどうしてカスパロフの計画に気がついたのかは謎のままでした。
カスパロフは自分の反撃計画は巧妙にできていてわかるはずがないと思っていました。しかしいくら分析しても、なぜディープブルーがそれを見破ったのかがわかりません。世界チャンピオンが初めて味わう「得体の知れない恐怖」でした。